丹頂の鶴
久生十蘭
底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
丹頂の鶴
久生十蘭
二の字の傷
恒例(こうれい)の鶴御成(つるおなり)は、いよいよ明日にせまったので、月番、北町奉行永井播磨守(ながいはりまのかみ)が、城内西の溜(たまり)で南町奉行池田甲斐守(いけだかいのかみ)と道中警備の打ちあわせをしているところへ、
「阿部さまが、至急のお召し」
と、お茶坊主が迎えに来た。
鶴御成というのは、十月の隅田川、浜御殿の雁(かり)御成、駒場野の鶉(うずら)御成、四月の千住三河島(せんじゅみかわしま)の雉(きじ)御成とともに将軍鷹狩のひとつで、そのうちにも鶴御成はもっとも厳重なものとされていた。
九代将軍が鷹狩でえた鶴を朝廷に献上して御嘉納(ごかのう)をうけてから、爾来、年中の重い儀式となり、旧暦十一月下旬から十二月上旬までの、寒の入りの一日をえらんで、鶴御飼場(おかいば)の千住小松川すじでおこなわれたもので、最初にとらえた鶴は、将軍の御前で鷹匠頭(たかじょうがしら)が左の脇腹を切り、臓腑を出して鷹にあたえ、あとに塩をつめて創口を縫いあわせ、その場から昼夜兼行で京都へ奉る。街道すじでは、これを、『お鶴さまのお通り』といった。
その後にとらえた鶴の肉は、塩蔵して新年三ガ日の朝供御(あさくご)の鶴の御吸物(おすいもの)になるので、当日、鶴をとらえた鷹匠には、金五両、鷹をおさえたものには金三両のご褒美。鶴をとらえた鷹はその功によって紫の総(ふさ)をつけて隠居させる規定。なお、当日、午餐(ひるげ)には菰樽(こもだる)二挺(ちょう)の鏡(かがみ)をひらき、日ごろ功労のあった重臣に鶴の血をしぼりこんだ『鶴酒(つるざけ)』を賜わるのが例になっていた。
文化のはじめごろまでは、鶴御飼場は、千住の三河島、小松川すじ、品川目黒すじの三カ所にあったもので、いずれも四方にひろい濠(ほり)をめぐらして隣接地と隔離させ、代地(しま)と陸地(くが)との交通は、御飼場舟という特別の小舟で時刻をさだめて行うなど、なかなか厳重をきわめたものであった。嘉永のころになって、多少ゆるやかになったが、それでも、このころもまだ、御飼場の鶴を殺したものは死罪、傷つけたものは遠島に処せられる。
御飼場には、だいたい、おのおの十五カ所の代(しろ)(季節によって鶴が集まる場所)があって、鳥見役という専任の役人が代地を管理し、六人の網差(あみさし)と下飼人(したがいにん)が常住(じょうじゅう)にそこにつめていて、毎日三度ずつ精米五合をまき、代地におりてきた鶴をならす。
飼いならすのにいろいろな方法があるが、鶴がひとを見ても恐れぬようになると、鷹匠が飼場を検分したのち、そのむねを若年寄(わかどしより)に上申する。若年寄と老中(ろうちゅう)が相より協議の上、鶴御成の日時をさだめて将軍に言上するのである。
永井播磨守と池田甲斐守が、大廊下を通って柳営(りゅうえい)の間(ま)へ行くと、老中阿部伊勢守(あべいせのかみ)は待ちかねていたようにさしまねき、寛濶(かんかつ)に顔をほころばせながら、
「いつもながら、お役目大儀。国をあげて外事に没頭し、たれもかれも、派手派手しく立働いているが、眼に見えぬ御両所の秘潜(ひせん)のお骨折があればこそ、ゆるぎなく御府内の安寧がたもっておる。まずまず、お礼の言葉もない。……ところで、明日はいよいよ鶴御成。国事多端のおりからにも古例を渝(か)えたまわず、民情洞察の意をもって鷹野の御成をおこなわせられること、誠にもって慶祝のいたり、物情騒然(ぶつじょうそうぜん)たる時勢、御道中警備の手はずには、もとよりぬかりのないことであろうが、それについて……」
といって、こころもち膝をすすめ、
「……ここに、意外なことが出来(しゅったい)したというのは、ほかでもない。お上がかねてお手飼いなされ、ことのほか御寵愛なされた『瑞陽(ずいよう)』ともうす丹頂の鶴。……いかなる次第か、この夏ほどよりおいおい衰弱いたすので、小松川の御飼場へお渡しになり、下飼人十合重兵衛(そごうじゅうべえ)というものに介抱をお命じになっていたが、今朝ほど重兵衛が代のかこいに入って見ると、『瑞陽』のお鶴が死んで水に浮かんでおった」